サマーウォーズ/「なぜ彼はおばあちゃんを殺せなかったのか」

 サマーウォーズを観たんですよ。知り合いとね、DVDで。映画館とBlu-rayで通算三回目の観賞ですよ。で、そんで考えたり考えなかったりしたことをつらつらと。
げんじつ!!

1. 【家族はおかあさんなんだ、という話】
・「元始女性は太陽であつた」と、平塚らいてふは言いました。
・・青鞜社創始の際に発せられた、非常に有名なセリフです。小学生でも(僕のいう「小学生」とは「『マンガ日本の歴史』を読んでるようなおガキ様」をさします)知っています。
・が、具体的に「古来女性は、どのように輝いていたのか?」について、彼女は言及していない。

・原初的な共同体、「家族」の成立は、「母親」の存在と表裏一体です。
・人類は自衛および狩猟のために、近しいモノ同士でグループをつくるようになりました。
・効率的な狩りのためには指揮をとる首長が必要になります。狩りをするのは男なのですから、当然首長の座には男がつきます。
・で、男どもは狩りで出払っている間はその共同体a’の首長は「母親」がつとめるようになるのです。
・結果子どもたちは「母親」に育てられ、保護され、愛情を抱くようになる。
・それまで無差別的に雑交を行ってきた人類が、急にそれを拒否するようになったのも男たちが「母親」を取られることに対して嫉妬するようになったからです。
・かくして、「群れ」は閉鎖的な属性を得て、「家族」へとなったわけです。

・フリッシャウアーは「聖書以前には『父』という概念そのものがなかった」とすら断じている。
・「守る者」と「与える者」はなんとなれば、常に「母親」だったからです。
・しかし、鳥瞰的に見て、「母親」を養っていたのは男なのでした。

2.【 サマーウォーズの話をしよう】
 『サマーウォーズ』に出てくる陣内家には欠落が存在します。それが、栄(ひいばさん)の扶養者たるひいおじいさんです。劇中では彼の存在を匂わせるイメージはほとんど出てきません。
 冒頭に「浪費家だった」という、まるで機械的なタグづけがなされるだけです。彼の存在は徹底して作中から排除されまくってます。いってみれば、視聴者の眼には、陣内家がたった一人の母親から派生してできたような家族に見える。
 これとよく似た構図があります。キリストの家族、すなわち、聖家族です。

 「聖家族」というのは、いまやゼロ年代の文芸小説を語る上では書かせないキーワードとなっているように思われます。
 たとえば、古川日出男なんか『聖家族』という小説でやはり、「夫不在のおばあちゃん」を描いてて、やはりそこでも彼女が孫たちに対して強い影響力を持っている。桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』に至ってはおばあちゃんは超能力者です。
 一方で、「キリスト」たるおばあちゃんの息子はそこまでヴィヴィッドに描かれていない。その点でも『聖家族』、『赤朽葉家』と『サマーウォーズ』は共通している。
 上下で描かれない神を、本来ハブであるはずの母親に忖度しているんスね。

 キリスト教は隔世の宗教です。布教者たるキリストは産業革命期を経て、遠い彼方へと飛び去り、いまやトリニティはダイレクトに信者と神を直結させている。なぜなら、もう誰も「キリスト」なんて信じていないから。しかし、神は信じたいと願っている。
 
 『サマーウォーズ』が日本の若者への訴求力を得たのは、まさにそこなんです。そら、日本人の大半はクリスチャンじゃありません。
 だけれども、時代に対する不安感を抱き、不甲斐ない親世代ではなく、ほとんどフィクション化している曾祖母世代をデウス・エクス・マキナ的な存在として憧憬を持っているっちゅうんは、図としてkanari近似しているんでス。
 「おばあちゃんだから強い」は自明の公理であって、それは「女性は古来より太陽であった」と同じように詳細な説明を必要としない、強度を備えているんでス。
 
 サマーウォーズは「成長が描かれない物語」と言われています。
 僕はそれに同意しません。
 栄は陣内一族の拠り所でした。彼女がいなくなれば、彼らがまとまる意味も機会もなくなります。ゴッド・イズ・デッド?
 しかし、展開はむしろ団結に針がふれます。なぜか。
 登場人物のひとりはラブマシーンと対峙するにあたり、こんなことを言っています。
「人様の役に立て、と”ばあちゃんに言われて”育ったからなぁ」
 と(うろおぼえなので多分細部は間違ってる)。

 
 これは、栄という呪縛にしばられた哀れな人間のセリフなのでしょうか。
 断じて、否です。
 彼だって、今まではそうしたキレーなプリンシパルを、物理的な居場所をとる栄という存在に肩代わりさせていたはずなんです。彼女がいる前では「そうしなきゃいけない」となる。
 さきほどのセリフを口走った彼は、劇中でラブマシーンという敵キャラによるイタ電攻勢により、消防士だったか救命士だったかとして街中を走り回るハメになっていました。
 「行ってもどうせ、イタ電だろう」と半ば腐りかけていたところにおばあちゃんの栄から「あきらめるな」と激を入れられることで、なんとか走り続けられたわけです。
 もし、栄がいなければ、彼の心は折れていたでしょう。おばあちゃんの激が必要だった、それは、つまり、彼が栄の教えを完璧に理解していなかったことの証左にほかなりません。

 が、彼は彼女の死後、つまりは神前を離れた後でもおばあちゃんの教えを自主的にオーベイしようとしている。
 元来外部的であるはずの道徳を、血肉化してコードとして自分の論理とする。
 これが人間的に成長でなくてなんとするのです。
 自首した侘助や「あきらめない」ことを学習した健二や夏希、「信頼する」ことを学んだ翔太。彼らはみんな成長しているのです。
 栄おばあちゃんを内在化させることによって。

 神は死んで、やがて偏在するようになりました。
 あなたの心の中に。それは進化だ。
 サマーウォーズはそういう話です。
 そういう話に、なりました。しました。ネマノさんが。

3.【「健二くん≠犯人」問題。】
 見終わった後に先輩と「なぜ健二くんは『無罪』になったのか」というお話になりました。
 確かに拍子抜けというか、そのせいで主人公の葛藤も薄まり、話が若干軽くなってしまった感は否めません。
 が。

 彼が「(結果とシテ)殺さなかった」ではなくて、「殺せなかった」としたらどうでしょう。「健二くんが犯人じゃなかった」のは「神は殺せない」からではなかったのか。
 もっといえば。
 彼はもともと外部の人間ですから、十二分におばあちゃんを「殺」せたハズです。実際、物語途中までは「殺すことになりうる状態」であったことは事実です(ばあちゃん死んだの「間違えた」のバレた後だけど)。
 ところが彼は受けいられてしまった。「家族」として陣内教の教義を信奉する信者として。
 「家族」の構成員として。
 信者に神殺しの罪をおわせるわけにはいきません。
 してみると、彼は栄に「家族」だと認められたために「犯人」にはなれなかったのではないでしょうか。
 
 で、侘助にはなぜそれが通用しなかったか。
 古今東西、背神と引換になるのは金です。
 彼は神を金で売ったのです。つまるところ、ユダだったのです。
 
 オチたのかオチてないのかさっぱりだ。

新ジャンル:「新世界系」より。

芥川賞の季節でしたが舞城王太郎先生(に無理やり受賞させて覆面をはがしたる下衆なファンども)におかれましては残念でした。
朝起きたらtwitterにこんな愉快な話題があがっておりまして。
 
 
 
これは、ありそうでなかったサブカテゴリです。新ジャンルです。その発想はなかった、ってんで各方面で話題になっているようです。ちなみに筆者の”方面”は「twitter」と「はてな」しかない『竜の卵』のチーラもびっくりの二次元世界なのでとてもエコノミカル。
 
じゃあさっそく新サブカテゴリ「新世界系」を更に細分化していきましょう。なんでそんなことやる必要があるのかって、そらーないですよ。ないですけど、おもしろいじゃないですか。
おはなしを分解するっていうのは。
 

・時間の流れ

ループもの
┌┐
└┘歴史が円環状にループしている(世界の破壊&想像が三度以上繰り返されていると劇中で明言されている)。遺物(オーパーツ的なもの)は受け継がれないケースが多い(ような印象)
——
藤崎竜『封神演義』
手塚治虫『火の鳥』など
 
リセットもの
現在―未来(世界滅亡)→新世界へ
or
 ┌――┐
 |  |
―┼――┘
 └―――→
—–
時間の流れが一本道。普通はこっち。
 

・パラダイムの転換

[科学to魔法]
Sci―デストローイ-リセット→Mag
—–
科学が高度に発展しすぎて文明崩壊。
その後、魔法の時代となり(主に)中近世レベルまで復興。
沖方丁『ばいばい、アース』
川原正敏『海皇紀』
貴志祐介『新世界より』などなど
 
[科学to科学]
Sci-デストローイ-リセット→Sci
——
科学が高度に発展しすぎて文明崩壊。
だが、科学は滅びない!(あるいは非魔法文明)
宮崎駿『風の谷のナウシカ』
石田衣良『ブルータワー』
などなど。
 
[魔法to科学]
Mag-デストローイ-リセット→Sci
—-
高度に発展しすぎた魔法が世界を滅ぼし、
その後、科学のチカラで復興するお話
浅学なもので、例がおもいあたりません。
 
[魔法to魔法]
Mag-デストローイ―リセット→Mag
—-
高度に発展しすぎた魔法が世界を滅ぼし、
その後、再度魔法のチカラで復興するお話。
浅学なもので、例をおもいつきません。
 

・物語の年代(世界の発展度)

[-古代(あるいはそれ以前)]
—-
『猿の惑星』
 
[-中近世]
—-
メイン。
 
[近代以降-]
—-
C・W・スミス<人類補完機構>シリーズとか
 
 
 
おまけ
http://twitter.com/Monomane/status/7880626732
http://twitter.com/Monomane/status/7880702193
なぜ「新世界系」がみんな大好きなのか。
これは「世界観の説明に説得力もたすのが楽だから」の一点に尽きます。
 
“Q. なぜ、主人公たちは魔法を使えるのか?”
A. 実はすごい科学だからです。”
 
これだけでオッケー。
「我々の世界とリンクしていたのだ!」って軽いどんでん返しを入れることで、物語にも奥行きがでますしね。本来非現実である魔法ファンタジーに、「リアルさ」というエッセンスを加えることのできる唯一に近い手段なわけです。
これは「物語の説得力」=「リアル」という短絡的で視野狭窄な結論に向かう危険を孕んだものですが(反対に「物語世界内だけの論理や約束事で読者を納得させるだけのチカラをもっている作品」がござんして、その好例が『HUNTER×HUNTER』)上手くハンドルできれば、現代が抱える慢性的な科学への不信感、末法思想などをとりこんで、テーマに広がりを与えることができます。
まさに、使い手の器量に委ねられた「超科学」なわけですよ。その凄まじいポテンシャルを扱えるかはあなた次第。

慎太郎先生、大勝利です!~芥川野望編~

芥川賞の季節がやってきました。今度こそ舞城王太郎がとれるといいですね、などと心にもないことをいう。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1068126&media_id=54

というわけで、我らが石原慎太郎大先生の芥川賞名言集いってみましょう。候補作皆殺し。
近年は特に文学に対する絶望が激しいようで05年には各選評を放棄するなどしている。96,7年頃や町田受賞時にはまだ希望をいだいて風な総評もあったのだけれど。
以下、
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/index.htm
より。

第115回 平成8年/1996年上半期
川上弘美(受賞)「私には全く評価出来ない。蛇がいったい何のメタファなのかさっぱりわからない。」「こんな代物が歴史ある文学賞を受けてしまうというところにも、今日の日本文学の衰弱がうかがえるとしかいいようがない。」

第116回 平成8年/1996年下半期
「今回の芥川賞のヴィンテイジは当たり年ともいえるのではなかろうか。箸にも棒にもかからぬような候補作とつき合わされる不幸をかこつこともままあるが、今回はどの作品も一応は読ませてくれた。」

第120回 平成10年/1998年下半期
平野啓一郎(受賞)「いろいろ基本的な疑義を感じぬ訳にはいかない。」「この衒学趣味といい、たいそうな擬古文といい、果たしてこうした手法を用いなければ現代文学は蘇生し得ないのだろうか。私は決してそうは思わない。」「浅薄なコマーシャリズムがこの作者を三島由紀夫の再来などと呼ばわるのは止めておいた方がいい。三島氏がこの作者と同じ年齢で書いた「仮面の告白」の冒頭の数行からしての、あの強烈な官能的予感はこの作品が決して備えぬものでしかない。」

第122回 平成11年/1999年下半期
藤野千夜(受章)「私にはあくまで一人の読者として何の感興も湧いてこない。平凡な出来事の中で描いてホモを定着させることが新しい文学の所産とも一向に思わない。私にはただただ退屈でしかなかった。」

「現代の新しい文学を造り出そうという新しい作家たちに新鮮な輝きが乏しいというのは、いかなる理由によるものか折節に考えさせられる。」「物を書くというのはかなり厄介な仕事だが、それまでしての作業の中で、それぞれの人生の中での抜き差しならぬ主題を収斂して選ぶという作業そのものが、情報の氾濫の中で杜撰なものになってしまっているのではないかという気がする。」

第123回 平成12年/2000年上半期
町田康(受章)「今日の社会の様態を表象するような作品がそろそろ現れていい頃と思っていた。その意味で町田氏の受賞はきわめて妥当といえる。」「それぞれが不気味でおどろおどろしいシークエンスの映画のワイプやオーバラップに似た繋ぎ方は、時間や人間関係を無視し総じて悪夢に似た強いどろどろしたイメイジを造りだし、その技法は未曾有のもので時代の情感を伝えてくる。」

第124回 平成12年/2000年下半期
「昨今、小説に関してその真髄であるべき物語性があまり斟酌されないような傾向だが、最後まで読者を引きずっていく力こそエンターテイナーの必要条件だが、それが芸術性の負の要因となることなどあり得まい。読みながら間をおかぬ訳にいかぬ小説など、退屈の同義語としかいいようない。」「そういう意味でも、青来氏以外の作品は私には論ずるに足りないものにしか思えなかった。」(*そしてホントに青来以外の作品に対して評を書かなかった)

第126回 平成13年/2001年下半期
長嶋有(受賞)「ある種のペーソスはあっても、実はごくありふれたものにしか感じられない。こんな程度の作品を読んで誰がどう心を動かされるというのだろうか。

第130回 平成15年/2003年下半期
金原ひとみ(受賞)「私には現代の若もののピアスや入れ墨といった肉体に付着する装飾への執着の意味合いが本質的に理解出来ない。選者の誰かは、肉体の毀損による家族への反逆などと説明していたが、私にはただ浅薄な表現衝動としか感じられない。」
「今回の候補作の作者はいずれも若い(綿矢・金原)、ということでそれぞれの主題がそれぞれの青春についてであったことは当然のことだろうが、それにしてもこの現代における青春とは、なんと閉塞的なものなのだろうか

第131回 平成16年/2004年上半期
舞城王太郎「多くの作品の中の会話がことさら現代的に幼稚化されているが、それが決して作品にアクチュアルな性格を付与してはいない。」「題名そのものまでが『好き好き大好き超愛してる。』にいたっては、うんざりである。

第132回 平成16年/2004年下半期
阿部和重(受賞)」「主人公の少女への偏愛という異常性の所以が、自分の子供の裸の写真を撮って離婚されたという説明に終わっているだけで、小説としての怖さがどこにもない。」「複数の選考委員の間で、多少瑕瑾はあっても、この作者にはもうそろそろこの賞を与えてもいいのではないかという声があったが、そうした発想はこの伝統ある文学賞の本質を損なうものではないかと危惧している。」

第134回 平成17年/2005年下半期
総評のみで各評ナシ。
「多くの候補作の印象は小器用だがマイナーという気がしてならない。これらの作品を読んで何か未曾有の新しいものの到来を予感させられるということは一向にないし、時代がいかに変わろうと人間にとって不変で根源的なものの存在を、新しい手法の内であらためて歴然と知らされるという感動もない。」

第138回 平成19年/2007年下半期
川上未映子(受賞)「私はまったく認めなかった。」「乳房のメタファとしての意味が伝わってこない。」「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい。
楊逸「日本語としての文章が粗雑すぎる。」「アーサー・ビナード氏の詩集の日本語としての完成度と比べれば雲泥の差である。選者の誰かが、「こうした素材を描いた小説が文藝春秋の本誌に載ることに意味がある」などといっていたがそれは本来文学の本質とは全く関わりない。」

第140回 平成20年/2008年下半期
津村記久子(受賞)「私としてはこの作者の次の作品を見て評価を決めたいと思っていたが、他の作品のあまりの酷さに、相対的に繰り上げての当選ということにした。」
「今回の受賞作以外の作品に、反発をも含めて、読む者の感性に触れてくる何があるというのだろうか。どれも所詮は作者一人の空疎な思いこみ、中には卑しいとしかいえない当てこみばかりで、うんざりさせられる。」「一方の直木賞候補作品たちに比べてみても、今日の純文学とか称されるカテゴリーの作品の不人気衰退が相対的にいかにもうなずける。」

第141回 平成21年/2009年上半期
「文学賞もやたらに増えはしたが、新人作家なるものがどれほど、狂おしいほどの衝動で小説という自己表現に赴いているかはかなり怪しい気がする。」「それは、作家の登竜門ともいわれている芥川賞の候補作品なるものが、年ごとに駄作の羅列に終わっているのを見てもいえそうだ。」

『カールじいさんの空飛ぶ家』がすさまじく怖い。死ぬ。

「一番好きなアニメーション・プロダクションは?」
と訊かれたら、ぼかぁ今は亡きハンナ=バーベラを挙げます。
で、「世界一ゴイスなアニメプロ・スタジオは」と問われたら。
PIXARでしょう。だったら、PIXARでしょう。
ジブリでもマッドハウスでもIGでもゴンゾでも京アニでもシャフトでもクラートキーでもワーナーブロスでもソユーズムリトでもソニーでもアードマンでもスタジオぴえろでも虫プロでもスタジオ・ゼロでも、それこそハンナ=バーベラでも本家ディズニーでもなくて、極道ネズミの軍門に降ったPIXARを推すでしょう。今はPIXARでしょう。
何がすごいって、最新作『カールおじさんの空飛ぶ家』がすごい。
なんというか、奇妙、というか、変、というか。
「はいはい。どーせアメリカ社会の哀愁や漠然とした不安感をノスタルジックに表現してるんでしょ。わろすわろす。らせたーらせたー」

で、上映終了直後に出てきた正直な感情が、”こわい“。

これ朝に観たあと、当初の予定では続けて『アバター』か『パブリックエネミー』も味わってみようかと画策してたんですが、あまりのショックですぐ映画館から退出してしまいました。

何が”変”だったんでしょうか? 何の要素が心の三半規管を揺さぶったのだろうでしょうか? パートごとに分けて考えてみるみる。

◇序盤:カールじいさんとエミリーばあさんの思い出
カールじいさんとエミリーばぁさんの出会いから別れまでが、ほぼサイレントで描かれます。
公開の前の宣伝でさんざん「妻を失った老人が旅に出るストーリー」と煽られまくってましたから、この過程の取り扱い如何で、じいさんに対する観客の感情移入具合も大分違ってくるはずです。しかし一方でこの部分だけ膨らませすぎても、肝心の「旅」パートが薄くなってしまいます。このジレンマをどうやって解消し、100分という決しては長くない尺内にバランスよく作品をまとめるのか。鑑賞前からこのポイントに非常な興味を抱いておりました。

はじまりは夫妻の幼少時代。気鋭の冒険家・マンツに憧れるカール少年は、冒険家に憧れる少女・エミリーちゃんと出会います。その日の夜、気の強いエミリーに強引に押される形で、カールくんはマンツが目指したまぼろしの地・「パラダイスフォール」(ラピュタとグランドキャニオンとナイアガラの滝と乱馬1/2の呪泉境を足して七くらいでわったような峻嶺)に「二人で素敵な家を立てる」と約束をかわします。
この時点ではカールくんが一方的に恋慕してるだけで、エミリーちゃんから見ればカールは「趣味をおなじくする同志(いいおともだち)」です。小さな恋のメロディにありがちな構図です。果たしてこれからどんな愛の軌跡が描かれるのか….!

で、
そのシーンから切り替わって、いきなり。
教会ですよ?

結婚式ですよ?

そこ….いや、その前になんかあるだろう。カットインだけでも二人の学生時代を挟んどくとか….告白とか、プロポーズとか…..
そんなん一切なし。
「どうせ物語的にはこうならざるを得ないんだよ。お前ら、言わなくてもわかるだろ? “おはなし”なんだから」とでも言いたげな豪快なカット。あたらしすぎる。で、二人の「愛の軌跡」は主に夫婦生活を通して(“古きよきアメリカ”と一緒に)観客に提示されます。サイレントで。「幸せに言葉で飾る必要がない」ということか。
ここですよね、「結婚前」ではなくて「結婚後」に重きを置くところ。この作品に対するPIXARの姿勢というか、覚悟が垣間見えます。

そしてエミリーとの死別。
そっからすうっと空気が変わって。
「約束」を果たすことなく妻を逝かせてしまった悔恨から、じいさんはぬけがらのようなニンゲンになってしまいます。やがて家に業者がやってきて、ビル建設のための立ち退きを迫られます。そこでじいさんがはじめてマトモなセリフを喋るわけですが、それが愚痴とも罵言ともつかない悪態なんですね。ここもまた象徴的。
演出がとにかくハマりまくってる。こわすぎる。

◇中盤:「旅」のシーン
分けるとしたら二つのパートに分けられると思います。「飛行」チャプターと「徒歩(曳航)」チャプターと。
おそらく、鑑賞前に観客が抱いていたのは「傷心のじいさんの孤独で静かでスピリチュアルな空のたび」….だったんでしょうけど。だったんでしょうけど。

これ、実際には25パーくらいしか当たってません。というのも(物理的に)「孤独」でも、「静か」でも、「スピリチュアル」でも、ないんですね。ともすれば「空のたび」も危ういくらい。出発時についてきたボーイスカウトのがきんちょにはじまって、ダチョウみたいな鳥、犬、とどんどん道連れがついてくる。桃太郎か、お前は。ガキはともかく、犬や鳥なんて一フレームも劇場予告編にはでてこなかったぞ? とりあえず終始”家は”浮いてるので「空飛ぶ家」の看板に一応は偽りないんでしょうけど。
しかも、前触れもなしにわけのわからない、追っ手的な別の犬たちも出てくるし。

んでまぁ、ロードムービー的になって行くにしたがって段々自分の中で納得していったのが「あ、これは『ブラザーベア』なんだな」と。チェイサーはいるけど、明確な悪役は設定されなくて、ただ偏屈な男と無邪気で寂しい家庭背景を持つ男の子(アメリカのアニメ映画ではシングルマザー描写が多い)が困難な旅を通じて友情を築き上げる、そんな『菊次郎の夏』なんだな、と。
『ブラザーベア』はかつて「ディズニー最後の2Dアニメ映画」の冠がつけられた悲劇の作品ですが、来年公開の最新作『プリンセスと魔法のキス(The Princess and the frog)』で2D復帰を果たすにあたり、ディズニーなりに「黒歴史」を克服しようとしてるのかなーほほえましいなーうふふ。
なんて思ってたら甘かった。
ディズニー的絶対悪、登場。

◇終盤:敵役とのアクションバトル。
これが、キツい
wikipediaにも載ってるからネタバレかどうか迷うけれど、悪役はまぁ、老人なわけですね。それもカールよりも確実に十五は年上いってるだろうっていう。
設定によると、カールじいさんは”78歳”らしいですから、計算上ではなんと御年90を超えます。おそらくディズニー映画史上、生身の人間では悪役最高齢でしょう。もちろん、PIXARの常で性格は”狡賢いへたれ”となっております。そして、絶対悪。情状の酌量する余地があると思われるのに、絶対悪的に振舞って絶対悪的な最期を迎える。『Mr.インクレディブル』でも見られた、PIXARの法律です。

この、じいさんvsじいさん で、ですね。
ガチンコバトルやるわけですよ。アクション、やるわけですよ。
こう、敵役がサーベル持ってブンブン振り回すんですよ。刃物の圧倒的暴力の前に逃げるしかないカールじいさん。次第に追い詰められ、悪役が大上段に剣を振り上げた瞬間に、

ボキっ、と、腰が抜ける。

起死回生! チャンス! とカールじいさんも反撃に転じるも

ボキっ、と。
こちらも腰が抜ける。

これ、ね。
キッッッッッッッッツイですよ。
精神的に。
視覚的に。

たぶん、これまでのどの映画作品にもなかったシーンでしょ、これ。
誰も描こうとしなかったモンでしょ。
これやっちゃうの、やっちゃうんだ。へぇ。
すげぇ。
製作者が込めたメッセージそのものがふっとんでしまうくらいの衝撃ですよ。
悪役のキャラクターもすげぇゆがんでおりまして、上述したとおりに絶対的すぎるまで絶対悪なんですよ。その男が歩んできた人生背景から行ってもう少し深く掘り下げたり、あるいは和解があったりしてもいいはずなのに、そういうのも断じて無し。悪役は悪役。PIXAR△。
で、このショックにうちひしがれながら、ラストまで突き進んでいくのです。

◇まとめて
そんでまー観終わったあと、序盤・中盤・終盤の三つを頭の中で連結させてみるわけですよ。これが、うまく繋がらない。いや、繋がるだけなら繋がりはするんですよ。でも、なんか、出来上がる完成形が、作品を一つの総体としてみた場合の像が、とてもいびつなものになってしまう。なんていえばいいんだろう。論理的整合性でいえば、チャプターひとつひとつはとてもマトモに見えるわけですよ。とりあえず、全チャプターをつなげてまとめることも出来る。出来るんだけど、何、コレっていう。
意味は通る。筋も通る。通るハズなんだけど、正体不明の不安感が止まらないといいますか。歪んだ鏡をボーッと眺めてるような、そんな不安定さを感じます。いつものPIXARじゃない。

悪役の描き方が納得いかなかったのだろうか? そうかもしれません。

予告編詐欺が気に食わなかった? それもあるかもしれません。

珍しく流血シーンがあったから? あるかもしれない。

いや、本当にそんな瑣末なことが問題なのだろうか。もっと何か、見落としてはいないか。

で、出てきた感想が、最初の”こわい”なんですね。
ぼかぁこれまでアニメ映画で”こわい”という感情を抱いたことないのでそれが転じて今「PIXARすげぇ!」モードになっちゃってます。釣りばし症候群?
うーん。

まぁ、こーれーか社会とかシングルマザーとか夢とは何かとか思い出とは何かとかアメリカンドリームとかめりけん社会とかデフォルメされててそこらへんふかいし、単純にストーリーもすげーかんどーてきなので家族向け年末お正月映画としてとてもおすすめです。楽しいです。泣けます。物理演算ガシガシです。動物はフサフサです。感涙です。
平日昼間に一人で見に行って、茫漠とした不安に陥るのは俺だけでいいです。