サマーウォーズ/「なぜ彼はおばあちゃんを殺せなかったのか」

 サマーウォーズを観たんですよ。知り合いとね、DVDで。映画館とBlu-rayで通算三回目の観賞ですよ。で、そんで考えたり考えなかったりしたことをつらつらと。
げんじつ!!

1. 【家族はおかあさんなんだ、という話】
・「元始女性は太陽であつた」と、平塚らいてふは言いました。
・・青鞜社創始の際に発せられた、非常に有名なセリフです。小学生でも(僕のいう「小学生」とは「『マンガ日本の歴史』を読んでるようなおガキ様」をさします)知っています。
・が、具体的に「古来女性は、どのように輝いていたのか?」について、彼女は言及していない。

・原初的な共同体、「家族」の成立は、「母親」の存在と表裏一体です。
・人類は自衛および狩猟のために、近しいモノ同士でグループをつくるようになりました。
・効率的な狩りのためには指揮をとる首長が必要になります。狩りをするのは男なのですから、当然首長の座には男がつきます。
・で、男どもは狩りで出払っている間はその共同体a’の首長は「母親」がつとめるようになるのです。
・結果子どもたちは「母親」に育てられ、保護され、愛情を抱くようになる。
・それまで無差別的に雑交を行ってきた人類が、急にそれを拒否するようになったのも男たちが「母親」を取られることに対して嫉妬するようになったからです。
・かくして、「群れ」は閉鎖的な属性を得て、「家族」へとなったわけです。

・フリッシャウアーは「聖書以前には『父』という概念そのものがなかった」とすら断じている。
・「守る者」と「与える者」はなんとなれば、常に「母親」だったからです。
・しかし、鳥瞰的に見て、「母親」を養っていたのは男なのでした。

2.【 サマーウォーズの話をしよう】
 『サマーウォーズ』に出てくる陣内家には欠落が存在します。それが、栄(ひいばさん)の扶養者たるひいおじいさんです。劇中では彼の存在を匂わせるイメージはほとんど出てきません。
 冒頭に「浪費家だった」という、まるで機械的なタグづけがなされるだけです。彼の存在は徹底して作中から排除されまくってます。いってみれば、視聴者の眼には、陣内家がたった一人の母親から派生してできたような家族に見える。
 これとよく似た構図があります。キリストの家族、すなわち、聖家族です。

 「聖家族」というのは、いまやゼロ年代の文芸小説を語る上では書かせないキーワードとなっているように思われます。
 たとえば、古川日出男なんか『聖家族』という小説でやはり、「夫不在のおばあちゃん」を描いてて、やはりそこでも彼女が孫たちに対して強い影響力を持っている。桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』に至ってはおばあちゃんは超能力者です。
 一方で、「キリスト」たるおばあちゃんの息子はそこまでヴィヴィッドに描かれていない。その点でも『聖家族』、『赤朽葉家』と『サマーウォーズ』は共通している。
 上下で描かれない神を、本来ハブであるはずの母親に忖度しているんスね。

 キリスト教は隔世の宗教です。布教者たるキリストは産業革命期を経て、遠い彼方へと飛び去り、いまやトリニティはダイレクトに信者と神を直結させている。なぜなら、もう誰も「キリスト」なんて信じていないから。しかし、神は信じたいと願っている。
 
 『サマーウォーズ』が日本の若者への訴求力を得たのは、まさにそこなんです。そら、日本人の大半はクリスチャンじゃありません。
 だけれども、時代に対する不安感を抱き、不甲斐ない親世代ではなく、ほとんどフィクション化している曾祖母世代をデウス・エクス・マキナ的な存在として憧憬を持っているっちゅうんは、図としてkanari近似しているんでス。
 「おばあちゃんだから強い」は自明の公理であって、それは「女性は古来より太陽であった」と同じように詳細な説明を必要としない、強度を備えているんでス。
 
 サマーウォーズは「成長が描かれない物語」と言われています。
 僕はそれに同意しません。
 栄は陣内一族の拠り所でした。彼女がいなくなれば、彼らがまとまる意味も機会もなくなります。ゴッド・イズ・デッド?
 しかし、展開はむしろ団結に針がふれます。なぜか。
 登場人物のひとりはラブマシーンと対峙するにあたり、こんなことを言っています。
「人様の役に立て、と”ばあちゃんに言われて”育ったからなぁ」
 と(うろおぼえなので多分細部は間違ってる)。

 
 これは、栄という呪縛にしばられた哀れな人間のセリフなのでしょうか。
 断じて、否です。
 彼だって、今まではそうしたキレーなプリンシパルを、物理的な居場所をとる栄という存在に肩代わりさせていたはずなんです。彼女がいる前では「そうしなきゃいけない」となる。
 さきほどのセリフを口走った彼は、劇中でラブマシーンという敵キャラによるイタ電攻勢により、消防士だったか救命士だったかとして街中を走り回るハメになっていました。
 「行ってもどうせ、イタ電だろう」と半ば腐りかけていたところにおばあちゃんの栄から「あきらめるな」と激を入れられることで、なんとか走り続けられたわけです。
 もし、栄がいなければ、彼の心は折れていたでしょう。おばあちゃんの激が必要だった、それは、つまり、彼が栄の教えを完璧に理解していなかったことの証左にほかなりません。

 が、彼は彼女の死後、つまりは神前を離れた後でもおばあちゃんの教えを自主的にオーベイしようとしている。
 元来外部的であるはずの道徳を、血肉化してコードとして自分の論理とする。
 これが人間的に成長でなくてなんとするのです。
 自首した侘助や「あきらめない」ことを学習した健二や夏希、「信頼する」ことを学んだ翔太。彼らはみんな成長しているのです。
 栄おばあちゃんを内在化させることによって。

 神は死んで、やがて偏在するようになりました。
 あなたの心の中に。それは進化だ。
 サマーウォーズはそういう話です。
 そういう話に、なりました。しました。ネマノさんが。

3.【「健二くん≠犯人」問題。】
 見終わった後に先輩と「なぜ健二くんは『無罪』になったのか」というお話になりました。
 確かに拍子抜けというか、そのせいで主人公の葛藤も薄まり、話が若干軽くなってしまった感は否めません。
 が。

 彼が「(結果とシテ)殺さなかった」ではなくて、「殺せなかった」としたらどうでしょう。「健二くんが犯人じゃなかった」のは「神は殺せない」からではなかったのか。
 もっといえば。
 彼はもともと外部の人間ですから、十二分におばあちゃんを「殺」せたハズです。実際、物語途中までは「殺すことになりうる状態」であったことは事実です(ばあちゃん死んだの「間違えた」のバレた後だけど)。
 ところが彼は受けいられてしまった。「家族」として陣内教の教義を信奉する信者として。
 「家族」の構成員として。
 信者に神殺しの罪をおわせるわけにはいきません。
 してみると、彼は栄に「家族」だと認められたために「犯人」にはなれなかったのではないでしょうか。
 
 で、侘助にはなぜそれが通用しなかったか。
 古今東西、背神と引換になるのは金です。
 彼は神を金で売ったのです。つまるところ、ユダだったのです。
 
 オチたのかオチてないのかさっぱりだ。

コメントする

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s に接続中